2011年4月9日土曜日

ますみへ。楽しい時間、充実した時間をくれてありがとう。安らかに眠ってください。

今回書く事は俺のまったく個人的な事で、本来、自分の心の中にしまっておけばいい事なのかもしれない。
しかし、どうしても何か文章かなにかの形で残しておきたかった。
はっきり言って、自分の気持ちを少しでもはきだして、少しでも自分を納得させる為だけに書く事なんだ。
これを書いた事で俺の心が平穏になるという事はない事は自分でもわかっているが、ここで書く事ぐらいしかはけ口がみつからないので、書く事にした。



先週の金曜日に石巻の沿岸部の3カ所の村をまわり、とてつもない光景を目にした。
俺の想像を遥かに上回る本当にショッキングな光景だった。

そのせいか、現在付き合いのある友人・知人の安否はもうわかっていたが、過去に親交のあった友人・知人・恋人の安否も気になった。
だから、相手にとっては迷惑な事かもしれないという事も承知の上で、連絡先を知っている限りの人達に連絡をとる事にした。

その中で、一番、気になっていた人がいる。
どうしても、声を聴いて安心したいと思った女性がいた。
20年近くも前に付き合っていた女性だ。
『ますみ』という娘だ。

もう10年以上、いや15年ぐらい前に逢ったのが最後だし、その後、俺も他の女性と付き合ったりしていたし、連絡をするのも迷惑かもなと思っていた部分もあり、彼女との交流は、最後に逢ったときから無かったが、俺にとってはいつでも特別な存在だった。
俺ももう40間近のおっさんだし、それなりに何人かの女性と付き合ってきたが、彼女と付き合っていた時期が俺の人生の中で一番楽しい時だったという事ははっきり言える。
今迄生きてきた中で圧倒的に楽しい時期だった。

俺は女性と付き合う時、そんなに心からのめり込む方ではない(自分が見えなくなる程女性に対してはまる方ではないというか、どこか客観的なところがある)と自分では思っている。
だから、女性と別れる時もそれほどダメージは無い。
しかし、彼女と付き合っている時だけは違った。
本当に心の底から愛していたし、とにかく彼女のすべてが好きだった。
いつも一緒にいたかった。

誰にでも、そういう存在がいると思うし、それが、今付き合っている人であったり、結婚した相手であればその人はすごく幸福だと思う。
残念ながら、俺とますみの恋愛は1年もしないで終わってしまったが。

俺と彼女が付き合っていた頃は、携帯電話等は普及していなかったし、当然、俺の携帯の連絡先に彼女の電話番号が登録されている筈も無いが、彼女の実家の電話番号だけは覚えていた。
とてもわかりやすい当て字で覚えられる番号だったし、当時も連絡先を書いたメモなど見なくてもその当て字で覚えてしまっていたので、今でもはっきりと覚えていた。

実は、数日前、彼女の実家には電話をかけていたのだが、その時はお母さんが電話口にでた。
俺は「ご家族無事ですか?」とたずね、「無事です」とお母さんが言っていたので、名前を聞かれたが、名前は答えずに「無事で良かったです」といって電話を切った。

しかし、あの石巻での光景を見てから、本人の声を直に聴いて無事である事を確認しないと落ち着かないので、もう15年近くも会っていない男に突然電話をかけてこられて迷惑だと思うかもしれないという気持ちもありながらも、やはり、電話をして本人と話をしようと思い、再度彼女の実家に電話をかけた。
もし、彼女が独身で実家にいるのなら直接声を聴けるかもしれないし、結婚して別な場所に住んでいるのなら、ご家族から、安否や現在彼女が幸せに暮らしているのかなどの話を聞ける。
それで、俺も安心できると思っていた。
正直なところ、まともな男と結婚して子供がいて幸せな家庭を作っていてくれればそれでいいと思ってもいた。

で、電話をして、お母さんがでたので、自分の名前を伝えた上で「以前、ますみさんと交流があったものですがますみさんはいらっしゃいますか」と尋ねた。
すると「もう一度お名前を教えてもらえますか」とお母さんが言ってきたので自分の名前を再度伝えた。

そこで、お母さんからまったく予想もしなかった衝撃的な言葉を聞いた。
「ますみは13年前に亡くなったんです」

はじめは、理解できなかった。
「え!どういう事ですか?」
と聞き返した。

そして、お母さんから、彼女が13年前、24才の時にタイに旅行中に病死したと知らされた。

頭の中がパニックになりながらも詳しい事を聞いていった。
彼女は子供の頃心臓が悪くて大手術をしたのだが(俺と付き合っていたときも胸の真ん中にはっきりと手術の跡が残っていた)、タイに旅行中に病気になり、彼女の心臓に合わない薬を投与された事が原因で亡くなったという事だった。

もう、話を聞きながら涙が次々とあふれ出てきて、冷静になろうと思うんだが、もう、頭の中が混乱すると同時に彼女の生前の姿(俺と付き合っていた頃の姿)が思い出されて更に涙が出てくるし、言葉につまり、お母さんに「ちょっと。すいません.....ちょっと今.....すいません.....」と何度も言いながら話を続けた。
お母さんも泣いていた。

そして、仏壇に手を合わせに行きたいと伝えたのだが、地震の影響で大変らしく、「少し時間を貰えますか」と言われた。
それであればせめて墓参りだけでもさせてほしいので場所を教えてほしいと伝えた。

彼女の墓は松森にある寺にあるという事を聞き「明日伺います」と言った。
すると、お母さんも「明日仕事が休みなので私も行きます」と言ってくれた。

翌日、寺で会う事にして電話を切ったが、いつ迄たっても涙がおさまらなかった。
おそらく、これほど号泣したのは10年以上ぶりだろう。
最後に泣いたのはもっと前かもしれない。

思わず、誰かに話したくて、俺と彼女の関係を知っている数少ない友人、チヨに電話をしてしまった。
そこでもやはり号泣してしまい、迷惑かけたが、彼女は特に無理に励ます事も無くただ単に普通に話を聞いてくれた。
その事にすごく感謝だ。

情けない事に、親にも泣いてるところを見られてしまい、変に気を使ってくるので、正直その事自体キツかった(両親には悪いが正直うざかった。そっとしておいてほしかったというか、何も無かった様に無視してもらった方がよかった)。
そして、家にいるのも辛かったし、喋らなくてもいいからとにかく外に出たかったのでとりあえず家を出た。

誰も知ってる人がいないバーにでも行こうかとも考えたが、結局、やはり、なんとなく、先日迄お世話になっていたジョニーズ・ダイナーに行ってしまった。

店にはジョニオさんとともえさんがいて、アキヒコさんがお客さんとして来ていた。
皆の顔を見て少しホッとした。

彼女が亡くなっていたという事実を少しの時間だけでも忘れたかったので、普通の話をしようと思った。
アキヒコさんと会うのは震災以来はじめてだったので、アキヒコさんやちあきさんの震災時の状況や、近況などを聞いたり、俺の近況など話したりして、結構リラックスできていた。
しかし、なんの話からそうなったのか覚えていないが、ちょっと皆さんの前で、みっともないところを見せてしまった。

ちょっと感情が抑えられなくなって。

皆、やはり、特に無理に励ます様な事も言わず、黙って聞いてくれ、時にちょっとした意見をのべてくれた。
配慮して下さったんだと思う。
その事だけでちょっと気持ちが落ち着いた。
感謝だ。

しばらくすると、一郎さんが来て、彼と会うのも震災後はじめてだったので、なんか直に会えてほっとしたし、ようじの会社が継続する事、ようじの家が決まった事、ようじがやる気なので"BANISH ARMS"が活動再開するという事を聞けてひじょうに嬉しかった。
俺はバニッシュが今のメンバーのまま継続する事を願っていたし、それが実現する事を信じていた。
それが、1年後でも2年後でも待ち続ける気持ちでいたので、最近ずっと"BANISH ARMS"のTシャツを着ていたのだが、こんなに早く実現するとは、とにかく嬉しい知らせだった。
4月23日のライブでは"SEED"も"BANISH ARMS"も見れるわけだ。

閉店間際、ジョニオさんと俺だけが店に残っていた。
先日迄は、俺もジョニオさんの側に立っていたわけだが、今は俺はカウンターに座っている。
ジョニオさんがジョニオさんなりの意見を話してくれた。
俺は、黙って聞いていた。
そして、とにかく墓参りに行って彼女に俺が伝えたい事をちゃんと伝えようと思った。

その日はジョニーズに置いてあった自転車で帰った。
でも、やっぱり、帰る道中、彼女の事が頭をよぎり涙がでてきた。
もう、彼女と話す事はおろか、彼女の姿を見る事、彼女に触れる事も何もかもできないんだと考えながらゆっくり帰った。

眠れそうにないので睡眠剤を大量に飲み横になった。

朝ちょっと遅めに目覚め、線香とろうそくを用意し、昼頃寺に向った。
途中花屋さんにより、「お墓参りにいくので」という旨を伝えた。
彼女にはカラフルな明るい花がふさわしいと思ったので「墓参りでも問題無いなるべく明るい色の花を見繕ってください」とたのんだ。
店員のお姉さんはとても親切に対応してくれた。

寺に付き、お母さんに電話をいれた。
しばらくするとご両親が来られた。
ご両親とは、はじめて会った。
とても親切な方々だった。
そして、俺が墓参りに来た事を感謝してくれていた。
俺の方としては、忙しいところを時間を作ってきてくれた事に申し訳ない気持ちもありながら、ますみのご両親に会えた事は嬉しかった。

震災の影響で墓石が倒れている墓もあったが、ますみの墓はすこしずれただけで済んだそうだ。

ますみの墓の前に着いた。
そこで、あらためて、もう直接話す事も、あの明るい姿を見る事もかなわないんだなあとあらためて思った。

まず、墓石をきれいにしてあげた。
できるかぎりきれいにしようと思った。
そして、花を生け、ご両親が持ってきたお供え物、俺が持ってきた梅酒を墓石の前に置き、
3人で線香をあげた。

手をあわせながら、頭の中で伝えたい事を伝えるが、伝えたい事がありすぎる。
ご両親の前で泣かないつもりでいたが、感情が抑えられなくなり、号泣してしまった。

お母さんは
「ますみお友達が来てくれたよ」
と言って涙ぐんでいた。

墓石に掘られた
「ますみ 24才」
という文字を見て、更に悲しみが止まらなくなり、涙が止まらなかった。
俺が生きてきた年月の半分とちょっとしか彼女は生きられなかった。
まだまだやりたい事はたくさんあった筈だ。
彼女は好奇心おう盛だったし、すぐ行動にうつすタイプだった。
俺と最後に逢ったのも2ヶ月程、ニューヨークに滞在して帰って来た時だった。
無念だったろうなあと思う。
悔しかった筈だ。

何故、彼女の様な人生に意義を持って明るく生きてる娘が24才で亡くならなければならなかったのか?
そして、俺の様に人生に投げやりになっている人間が未だに生きているのか?
もし、神などというものが存在するとすれば、その仕打ちはあまりにも残酷すぎる。
不公平すぎる。

タイでは遺体を焼いたあと、骨は川に流す習慣があるという。
ますみをむかえに行ったのはお父さんで、現地に骨壺は無いので、遺骨を入れられるものを用意して彼女の遺骨を入れて日本に帰ってきたという。
だから、お母さんは彼女の死に顔すら見れなかったという。
彼女がタイに行ったのは3回目だったという。
タイの国民性やタイの人の人柄がすごく好きだったそうだ。
最後にタイに行くときお母さんは
「ますみ、どうしても行かなきゃいけないの?」
と、聞いたが、彼女は笑顔で旅立っていったという。
お母さんが彼女を見たのはそれが最後だ。

2回手を合わせ、涙が止まらないまま、お母さんに「俺の人生の中でますみさんと一緒にすごした期間が最も最高の時でした」と伝えるが、うまく言葉にならなかった。

「あの娘の写真が何故かあまり無いんです」
と言いながら、お母さんが俺にますみの写った写真をくれた。
それは、彼女がメインで撮られた写真ではなかったし、なにかの行事で和服を着て髪もいつもと違う様にセットされていたし、メイクもいつもと違っていたので、俺がいつも見ていた彼女の雰囲気とはかなり違っていたものだったが、貴重な写真を俺の様な人間にゆずってくださったという事にすごく感謝するとともに、あらためて涙が出てきた。

最後にもう一度手をあわせて
「安らかに眠ってくれ」
「そして時々でいいから俺の事も見ていてくれ」
と伝えた。

その場を離れたくなかった。
ずっと居たかった。
お母さんは「また来てあげてくださいね」と言った。
そして、彼女の妹が先月結婚した事を教えてくれた(彼女と妹さんはかなり年がはなれている)。
「ますみの分も幸せになってくれればと思ってます」
と、お母さんは言った。
俺も同感だった。
妹さんとは会った事はなかったが、俺と彼女が付き合っていた頃、妹さんはまだ小学生だった。
本当にますみの分も幸せになってほしい。
幸せな家庭を作ってほしい。

ご両親にもう一度、挨拶をし、近い内に仏壇に手をあわせに行く事を伝え、車で帰っていくのを見送った。
寺の前でしばらく、動けなかった。

バイクで帰る途中、彼女の事が頭の中に浮かび、涙が止まらなかった。
このまま、家に帰る気がしなかったので(家に独りでいたらおかしくなりそうだった)、レコード屋や本屋によって気を紛らわした。

その後、深夜迄、近所のファミレスにいた。

家に帰ると、精神的に疲れ果てていたので、ひとまず多量の睡眠薬を飲んで寝た。

起きてから精神科に行き、強めの抗鬱剤を出してもらった。
午後、ある場所で友人数名と会い、今回の震災に関しての話などしていた。
その間は、少し気がまぎれた。

夕方、その場所を出て、やはり家にすぐに帰る気にならなかったので、近くの古着屋に行った。
店長さんと、やはり震災の話などし、その後、その系列店に行った。
そこの店員のお姉さんとの会話はとてもおもしろかった。
ちょっとだけ、気がまぎれた。


家に帰って、この文章を書き始めた。
途中、知人から電話がきたが、最初のうちは、正直うわのそらだった。
正直、知人には悪いが、早く電話を切りたかった。

電話を切って、文章のつづきを書きはじめた。
その間にも、何度も涙があふれてきた。
朝になり、さすがに休みたいと思い、つづきは目が覚めてからにしようと思った。
考えがもう少しまとまってからにしようと思った。
睡眠薬を多量に飲んで寝た。

目が覚めると、24時間以上寝ていた様だ。

亡くなった当時、彼女にとっての俺はただの過去の男だっただろうし、俺も別な女性と付き合っていた。
でも、いつでも、他の女性と付き合っている時でさえ、彼女は俺にとって特別な存在だった(こう書くとなんかストーカーのようだが)。
今後、俺も誰か他の女性と付き合う事はあるだろう。
結婚や家庭を持つという事には正直まったく興味が無いが、結婚する事もあるかもしれない。
しかし、彼女との楽しかった思い出、明るかった彼女の姿、彼女との記憶が、俺の心の中から無くなる事は一生無い。


彼女には、俺とはもうまったく関係のないところでいいから幸せに暮らしていてほしかった。
幸せな家庭でも作っていてほしかったし、もし独身でも、好きな事、やりたい事をたくさんやっていてほしかった。

しかし、彼女は24才で生涯を終えていた。
やりたい事をたくさん残したまま。
もう、彼女の声すら聞けなければ、彼女の姿を見る事もできない。

今回、震災があった事によって偶然にも彼女の死を知ってしまった。
彼女は今回の震災で亡くなった訳ではないが、ある意味、彼女の死によって、1人の人間の死がまわりの人々にどれだけのダメージをあたえるのかという事を実感させられた気がする。
もう15年も逢ってない人間に何を言ってんの?という奴もいるかもしれないが、はっきり言うがそういう奴の意見など、まったくどうでもいい。
俺にとっては、何年逢って無かろうが特別な女性だからだ。

石巻に行った時、爆撃を受けたかの様な、一面のがれきと損壊した車以外なにも残っていない村をたくさん見たし、100数名いた子供達が80数名以上亡くなった村にも行った。
そういう光景や話を聞いて「酷い」とか「惨すぎる」とか、思う気持ちがある一方、どこか、本当の意味でその根幹みたいなものを理解していなかったと思う。
自分の目の前で悲惨きわまりない光景を見たり、惨い話を聞いても、やはり、なにか人ごとの様な気持ちでいたのだろう。

こう書いたら、きれい事だと思われるだろうが、彼女がそういう事を教えてくれたのかもしれない。

お墓参りから帰って数日たち、普通に喋れる様にもなってきたし、人とコミュニケーションをとれる様にもなってきた。



ここから書く事は、乱暴、暴言だと思われるかもしれんが俺の私見として書かせてもらう。

俺は、自殺したい人には自殺をする権利はあると思ってるし(勿論、それを避けられる事が一番いいに越した事はない)、現に俺も自殺を試みて結局未遂に終わってしまった事もあった。
「生きたくても生きられない人が.....」「残された人々の悲しみが.....」などという意見を言う人も多いと思うが、もちろんそれも一理あるとは思うし、まっとうな意見だろう。
でも、自ら死を選ぶ迄の精神状態になった人間にとってそんな言葉は何の役にもたたない。
それぞれ境遇は違えど、なんかしらの形で精神的にとてつもないダメージを負っていたり、生きる事自体が拷問の様だというか、苦痛以外のなにものでもないから死を考えるまでにいたってしまうという事だからだ。
実際俺も、毎日、一日中『死』しか考えていない時期があって、結局、半年ほど精神病院に入院した事もあった。
今も抗鬱剤がないと普通にものが考えられないし、睡眠剤が無いと眠れない。
幸い、俺には支えになってくれる友人がたくさんいて、彼らに助けられながら生きている。おかげで自殺願望も最近は滅多に無くなった。
ただ、そういう支えになってくれる友人さえ、いない人々もいる。
そういう人達にとって、いくらあかの他人が何を言おうと、何の支えにもならないんだ。
「がんばれよ」とか言われても、がんばってもがんばってもどうしようもなくなってんだから、そんな言葉は当然響かない。

そして、所謂、尊厳死に関しても俺は肯定派だ。


しかし、自分の意志とは関係ないところで人が死ぬという事にはどうしても納得がいかない。
生きたいと思っている人、生き甲斐を持って人生を送っている人が突然死んでしまう事には納得がいかない。
やりたいことや夢、目標がたくさんある人がいきなり死んでしまうという事にはやはり納得がいかない。


ますみも、今回の震災で亡くなった人々も皆、自分の意思とは関係無いところで突然人生を終える事になってしまった。
やはり、その事にはどうしても納得がいかないんだ。

だから、俺が今後どのような死に方をするのかはわからないが(人生に失望して自殺するかもしれないし、事故にあって死ぬかもしれないし、もしかしたら長生きして老衰で死ぬかもしれない)、どういう死に方をするにしろ、生きている間は、生きている今は、やりたい事をやりたい様に全力でやるしかないと思っている。

ますみはやりたい事をたくさん残して亡くなった。
その分、といってはきれい事と思われるかもしれないが、彼女の分まで、俺が生きている間だけはやりたい事をやりたいだけやる事、全力で動く事。
それを実行していこうと感じた。

皆にも言いたいのは人間の命っていうのは、本当に儚いものだと思う。
だから、生きている間だけは、やりたい事をやれるだけやりまくってほしい。


この文章は精神状態が安定していない時期から書きはじめて、今まで何日かにわけて書き足していったので、正直、うまく伝わらないかもしれないが、読んでくれた人には感謝する。


ますみへ。

楽しい時間をありがとう。
充実した時間をありがとう。
天国で安らかに眠ってくれ。
そして、たまにでいいから俺の事も見ていてくれ。
ありがとう。


彼女とよく一緒に聴いた曲達。









彼女は当時ネオアコとかギターバンドとか好きで、俺はハードコアから別の音楽に趣味が移行していた時期だった。
彼女からは、いろいろなネオアコとか今でいうシューゲーザーみたいのを教えてもらった。
残念ながら、アーティスト名やタイトルをほとんど忘れてしまったし、すごく好きだった曲がYOUTUBE上にUPされてなかったりする。
お互い"2nd サマー・オブ・ラブ"みたいな文化、音楽は好きだった。



彼女に貰ったレコード。名曲。↑

俺が彼女に無理矢理聴かせてた曲。↓



自分が音楽を聴く時、歌詞を気にして聴くという事は一部のジャンルをのぞいてはほとんどない。
この動画とか載せると、ふざけてるのかと思われるかもしれないが、今、本当にこんな気持ちだ(ストーカーみたいだと思われるだろうけど)。
もう、遅すぎるが。

2011年4月4日月曜日

ちょっと今日は震災とは関係無い個人的な事を書かせてもらう。

震災後に、しばらくこのサイトに関しては震災に関する事を書こうと思うと言った。

先日、沿岸部に行って、自分の目で地獄の様な光景を見てきたので、その事に関して書くつもりではいたし、早急に書かねばいけない、伝えなければいけないとは思っていた。
例え、このブログを10人ぐらいの人しか見ていないとしてもだ。

しかし、今、俺にとって、その地獄の様な光景すらどうでもよくなるぐらいショッキングな事実が発覚して、自分がとてつもない悲しみの中にいるので、こんな時に申し訳ないが、今日は震災関連の事ではなく、その事に関して書かせてもらう。

本当は、昨日のうちに書きたかったのだが、頭の中が混乱してまとまらずにいたので、書けなかった。
そして、今はやすみたい。
だから、今は眠剤をたくさん飲んで横になりたいと思う。

朝、目覚めて、精神状態が落ち着いていたら、考えがまとまっていたら、昨日書きたかった事を書こうと思う。

まったく個人的な事だけど。