2011年10月4日火曜日

俺クラシックスその4!!!!!! GAUGE "CRANIM(REMIX)FEAT.THE CELLADWELLAS"

「人には自分だけの名曲がある。人はそれを"俺クラシックス"と呼ぶ」
リー・マービン


本日は97年のアングラ名盤です。
まず聴いてみてください。





イントロ、フックで出てくる鳥の鳴き声の様な変な音。
そして不吉な感じのホーンとピアノ?
REMIXとはなっているがトラックはオリジナルと同じ。


プロデューサーはBIG SELFという人だが、まるでフィーチャリングされているCELLA DWELLASのアルバムに入っていてもおかしくない程NICK WIZっぽい音である。
こういうの完全に俺のツボなんですよね。


逆サイドはこんな感じ。





これもまあまあかな。
好きか嫌いかでいったら好きだ。
こっちのプロデューサーはS&J ENTERTEINMENT。
しかし、どちらもよく知らん。


彼らはこのシングルを含めて3枚のシングルを残して(他アーティストとの企画ものっぽいやつも入れれば4枚)シーンから消えてしまった様で残念だ。
俺は最初の2枚しか持ってないので、いつかはコンプリートしたいアーティストだ。

2011年9月28日水曜日

俺クラシックスその3!!!!!! Aboriginals"Keep It Hot/The Joint"

「人には自分だけの名曲がある。人はそれを"俺クラシックス"と呼ぶ」
チャールズ・ブロンソン


この人達も90年代後半のアンダーグラウンドヒップホップを聴いていた人なら知ってると思う。
しかし、一番紹介したい何枚かのレコードがみつからないので、今日はこれにした。


彼らがどこのグループなのかわからないが音から考えるとニューヨークだろう。


彼らは96年から2000年までの間に4枚のシングルを出した様だが(5枚とも、他アーティストとのカップリングもいれれば6枚という説もある)。


今回紹介するのはそのデビュー盤である。
まずはA面"Keep It Hot"。





いくらか大ネタ感はあるが(思い出せない。ブレンダ・ラッセルだっけ?)、聴いてて気持ちがいいトラックだね。


つづいてB面"THE JOINT"。





A面とは打って変わって暗い、もの悲しいトラックになっている。
実はこっちの方が好きかもしれない。
スネアもいい感じでなってる。


3枚目は90年代後半に大活躍したSHAUN J PERIODもプロデューサーとして迎えているが全体的にアングラ色が抜けきらず、ブレイクにはいたらなかった。
おそらくアルバムも出していないだろう。
でも、どれも俺の琴線に触れるもんだったよ。


これ見て(5人ぐらいしか見てないと思うけど)、興味がある人はレコ屋に走れ。
多分他のシングルも500円しないと思うから。
ユニオンだったらめちゃくちゃ安く手に入ると思うよ。


という訳で今回はこれで撤収。

2011年9月11日日曜日

震災から6ヶ月経って。

あの忌まわしい3月11日の震災から6ヶ月が経った。

今でもたまに余震はあるが、沿岸部を除けばほぼ元の状態に近くはなってきているようだ。
といっても、街中には閉店した店もあれば、建て直したり、補修中の建物もある。
でも、通常の生活ができてる人達にはたった半年前の事なのに過去の事の様になっている気がする。
そういう俺もそうだ。

でも、家が流されて借金してまで新たな家を借りたり、自宅の損傷が酷くて県外に避難させられた友人もいる。
避難所にいる人もまだ7000人近くいる様だ。
仮設住宅もプレハブみたいなもんなのでそこに住む人々も大変だろう。
内陸部にいる俺らの様な人間はひとまず普通の生活ができてるが、石巻や気仙沼など沿岸部に住む人々はどうだろう。
仙石線も未だ復旧のメドがたっていない様だ。

死者行方不明者は1万9800人。

とてつもない数の人々が亡くなっている。
この事を風化させてはいけないと思う。
そして復興と言えるのはまだまだ先だと思うが、元どうりの宮城県(あるいは岩手県、福島県)に戻る事を切に願うばかりだ。

I Love New York







2001年の9月10日にサンフランシスコから帰ってきた。
時差ぼけと疲れで丸1日寝て、何気なくテレビを観ていたら臨時ニュースが入った。
はじめは意味が分からなかったが、2機目がビルに突っ込んだ時、これはただ事じゃないな、テロだなと思ったのを今でも思い出す。
あれから10年経って世界情勢も随分変わったが、未だ、世界中で戦争や争いは終わらない。
もう風化しかけている気もするが、皆あの時の事とその後の事を忘れてはいけないと思う。

2011年8月23日火曜日

DISCOの7インチに関して.......。

7インチのレコードというのは、なかなか魅力的なものだ。
SOULやFUNKのコレクターの方々にとっては当然の事だし、一時期からHIPHOPなども7インチを頻繁にリリースする様になってった。
で、そういうのは当然買ってしまうんですね。


しかし、コレクターではない俺にとってはこれはどうしたもんだろうという事がある。
それがDISCOの7インチである。

コレクターでなくても好きな曲を7インチで見つけると購入してしまうんである。

そして、何が困るかというと、その曲のランニングタイムというか収録時間である。

本来DISCOというのは、曲が長い。
10分近い曲がざらにある。
しかし、7インチとなるとその曲全体の長さをオリジナルどうり入れるというのはできない(できるのかもしれないが音が悪くなるのだろう)。
ラジオ局でも長い曲はかけてもらえそうにないしな。

その為、DJなどで使うのには使い勝手が悪い。
そういった曲を何曲か紹介してみたいと思う。

まずはこの曲から。

カナダの歌姫
FRANCE JOLIちゃんの "COME TO ME"
名曲です。

アルバムヴァージョンと思われるものから↓

FRANCE JOLI "COME TO ME"
(すいません。埋め込み無効だったんでリンク先まで飛んでください。)

この曲のアルバムヴァージョンはは9分34秒ある。
しかし、下の日本版シングルヴァージョンでは......



なんと、その約半分4分59秒にまでカットされているのである。
映画でいったら2時間の映画を1時間にカットされたようなものである。
間奏ががっつりカットされてますね。

因みに、12インチ、7インチ共にいろいろな国で出ている様だが、時間はまちまちである。
アルバムヴァージョンが一番長いのではないかと思われる(違ったらすいません)。

しかし、こうして聴いてみると使い勝手とかそういうの関係無しでこの曲をこの7インチではじめて聴いた人は、普通にいい曲だと思うんではないだろうか?
そう考えるとこの曲を編集した人はなかなかいい仕事してるんじゃないかと思う。
かなり強引ではあるが......。

2曲目。
パトリック・アダムス絡みで人気の
MUSIQUE "KEEP ON JUMPIN"

まずは12インチヴァージョンと思われるものから↓



当時リリースされた12インチは5分41秒で、アルバム収録の6分56秒より短い。
ただし、この曲は78年リリースしたものだが、88年にリリースされた7分2秒のリミックス版もある。
この7インチでは3分51秒で、やはりアルバムヴァージョンよりも半分程短い。



しかし、この曲の場合は元曲がシンプルなのでそんなに違和感は感じないかな。
DJで使うならアルバム持っていくけどな。
因みに7インチのB面は、これも人気曲"IN THE BUSH"です。

3曲目。
カナダの産の人気ディスコ
GINO SOCCIO "DANCER"



うーん。かっこいい。
これは12インチで8分23秒あります(アルバムも同様)。

で、日本版7インチはどうかというと......



まずイントロのクラップと徐々に入ってくるシンセなどはじめからかなりカットでいきなりはじまってますね。
収録時間が3分30秒。
おいおい。マジかよ。
5分近くもカットしてんのかよ。
カッコいい間奏部分もカット。
これはちょっと使えなそうですね。
もうちょっとがんばってほしかったですね。
でも、こういう事想定して買ってんですけどね。
俺も。

4発目。
GRACE JONES "ON YOUR KNEES"

まずは12インチから↓



12インチもアルバムもタイムは6分30秒です。
で、7インチはというと......



3分45秒です。
かなりカットされているわりにはこれは、そんなに違和感は感じない方ですね。

因みにこの曲。
プロデューサーはTOM MOULTONですよ。

で最後。
5発目。
本日のテーマの中で一番の問題作です。

TANTRA "HILLS OF KATMANDU"

イタロエレクトロディスコの最高峰のひとつといってもいいでしょう。
まずは16分を越えるオリジナルを聴いてみてください。



※最後まで聴いた人に一言。「おつかれさまでした」。

カッコよさすぎですね。
デケデケ系のシンセベースと生のベースが入ってて時折乗るコーラスの様な女性ヴォーカルと語り。
あくまでもヴォーカルではなく演奏というか楽曲自体が主役という感じですね。
このベースラインは何時間聴いていても飽きない。

ところがですよ。
日本版7インチは......



シンベではじまって5小節目にはもうヴォーカル入ってきてます。
主役はヴォーカルになっている。
で、ヴォーカルが終わった頃に演奏がフェードアウトしていくと......。
そして16分20秒の曲がたったの3分29秒になってるじゃないですか!!!!!!
5分の1近く短縮されている。
イタリア版7インチも、スカンジナビア版7インチも4分37秒だというのに。

という見事に原曲とは違う形になってますね。
これを聴くと、冒頭で書いたFRANCE JOLI "COME TO ME"がいかにもよくできたリエディットの様に聴こえてきますね。


しかし、驚きなのはこの曲が日本でリリースされていたという事実です(B面ですけど)。
日本のディスコブームの時代も結構侮れないっすね。
当時のDJはこういうエレクトロディスコもかけてたんですかね。



という訳で、もっとおもしろい記事になる予定が、たいしておもしろい文章にならなかったっす。
反省。
全曲聴いた方(いるのか?)、本当におつかれさまでした。
じゃあ、撤収でーす。

2011年8月16日火曜日

ついにD.M.R.も......。

渋谷でも老舗のレコ屋、ダンス・ミュージック・レコードが、レコード、CD、DVDの販売から7月いっぱいで手を引いたというのをさっき知った。

ここまで音楽業界の状況はキツいのか?というのが正直なところだ。

シスコが潰れた時もひじょうにびっくりしたし、ターゲットは違うにしてもHMV渋谷店の閉店を中心とした事業の縮小にもここまできたのかと思ったが、まさか、D.M.R.までレコードから手を引くとは......。
これは、音楽配信がどうとかいう事も多少は関係あるかもしれないが、それよりも、若者の音楽離れが進んでいる事もあるのかもしれないと個人的には思ってる。
また、コアな音楽にはあまり興味を持たない人が増えているのかもしれない。

たぶん、俺らが20代とかの頃よりも、今の若い人達は音楽に比重をおいていないのかもしれない。
そして、俺らおっさん世代も歳を重ねるにつれ音楽からはなれていく人々が多いのだろう。

20代の時からD.M.R.はかなり利用させてもらってきた。
かなり投資したよ。

90年代初期の頃、D.M.R.は通販カタログを作っていなかったので、店に電話しておすすめのやつとかを取り置きしてもらい、3、4週間たったらダンボールで送ってもらうという買い方をしていた。
また、90年代半ばから後半くらいにかけては通販カタログの文章だけを頼りに「気になるものはほぼ買う」みたいな買い方をして、結構はずれも引いてた事を思い出す(今みたいにネットも普及してないので通販では試聴は当然できない訳です)。

2000年代に入ると東京に住んでいたので、休日は、渋谷までバイクで行って、まずHMVの2階でHIPHOPをあさり(俺が東京に行ったばかりの頃はHMVの2階もなかなかレコードが充実していた。ポイントがたまる利点もあったしね)、ディスクユニオンの2階(ハウス/テクノ)、3階(HIPHOP)をあさり、地下(JAZZ/レアグルーブ)で何度も並んで試聴をし、その後、D.M.R.の1階右奥から左奥をチェック、2階に上がってハウスをチェックして、シスコハウス店(狭かったけど充実はしてたなあ)で試聴しまくり、HIPHOP店を軽くチェック、マンハッタンHIPHOP店へ行くという流れだった。
その後に今は無きギネスレコード(品揃えが本当に素晴らしかった)にも通う事にもなったなあ。

俺にとっては最高の時間だったよ。

でも、宇田川町の店の雰囲気が変わっていくのは感じてた。
HMVの2階からは極端にアナログが消え、DMRもあきらかに客は減っていってるなあと感じた。
何台も置いてある試聴機に、並ばないと聴けなかったのが、誰も試聴機の前にいないという事が多くなっていった。

そして、シスコは閉店し、昨年HMV渋谷も店を閉め、ギネスレコードは無くなり(ギネスはオーナーが亡くなったせいだとは思うが)、ユニオンも事業縮小した様だし、ついにD.M.R.までレコードから手を引くとは。

通ってた店の半分以上が店を閉めるか、違う事業展開に方向を変えている。

さみしい限りです。
そういう俺も、仙台に帰ってきてからは、新譜を買うのはほぼユニオンの通販だし、D.M.R.からは何度か買った程度だった。

渋谷にはまだたくさんのレコード屋さんがあると思うが、どこも厳しいのが現状かもしれない。

しかし、がんばってほしい。

特にユニオンとマンハッタン。
がんばって宇田川町を守ってください。



ところで、レコードを置かないっていう事はダンス・ミュージック・レコードって名前は変わるんだろうか?



2011年8月14日日曜日

まったく憧れのない40歳になりました。

一昨日の事ですが、40歳になりました。
まったく憧れのない世代です。

10代の頃は30代になったらおっさんだから、それまでに死んでやろうと思ってました。
そして20代後半の時は35歳までに死んでやろうと思ってました。
そして30代半ばの時には40までに死のうと。

しかし、しょうもない事にまだ生きてます。

今の気持ちですが、この精神疾患から脱出して(いや脱出してもまた必ずやってくる気がするんで無理に脱出しなくてもいいのですが......このまま付き合ってやるかと)、やりてー事をやりまくってやりきって(やりきるという事が可能なのかは別として)早めに死にてーなと思ってます。
だから俺の人生には『皇潤』も『世田谷育ちのグルコサミン』もいらない。

しかし、先日、24歳の若さで亡くなった友人の墓参りに行ってきたので、簡単に『死にてーな』なんていえない気持ちもある。
簡単にそういう言葉を口にする事が(実際には簡単に発している訳ではなくて、長く生きるという事を望まないという本心ではあるのだが)彼女に悪い気もあるのだ。
そして、あの震災から5ヶ月。
犠牲者の方々にも。


まあとにかく、40歳になっての目標は(そう大げさなもんではないが)、
『やりたい事をしっかりちゃんとやる』
という事だろうか。

という事を毎年言ってる様な気がするが、今までの俺の人生は酷く薄っぺらい説得力の無いものだった。
それを打破したい。

まずは音楽関係をいろいろとやっていきたいと思ってます。

関係無いけど、さっき『伝説巨人イデオン/発動編』を観た。
40代になってはじめに観た映画が『イデオン/発動編』。
毎回観る度に思うのだが、考えさせられるね。
特に今の国内や世界の状況を見ているとリンクするところが多々あるというか、考えさせられる。
『イデオン』に関してはいつか当ブログでも書きたいと思っている。



最後に誕生日を祝ってくれたkakii3さん、たくみ、umiasa27さん、誕生日メッセージをいただいた皆様方に心から感謝です。
この場をかりて、ありがとうございました。

2011年8月12日金曜日

俺クラシックスその2!!!!!! MOOD "SECRETS OF THE SANDS (JAY DEE REMIX)"

"俺クラシックスその2"


「人には自分だけの名曲がある。人はそれを"俺クラシックス"と呼ぶ」
-アントニオ・カルロス・ジョビン-


今日紹介する曲も90年代にアンダークラウンドHIPHOPを聴いていた人間なら知っていると思うが書きたいので書く。


MOOD   "SECRETS OF THE SANDS (JAY DEE REMIX)"


である。




つうか、その前に何曲かここで書きたいレコードがあるのだが、レコードがどこにあるのか榊原いくえ
不明状態である。
整理整頓はちゃんとしましょうね。



MOODというグループは後にソロとしても活躍するMAIN FLOWを擁するグループで、他にラッパーのDONTE、プロデューサーのJAHSONがいる。
オハイオのグループだ。


何枚かのシングルと1枚のアルバムを出しているが、正直いまいちぱっとしない。
JAHSONのトラックは暗くて嫌いではないが、一般受けはしないだろう。
きらいじゃないんだけど。
個人的には好きなトラックもある。
又、アルバムとシングルにはDJ HI-TEKとTALIB KWELIが参加していたりするが、それもいまいちぱっとしないのが正直なところだ。


話を"SECRETS OF THE SANDS"にもどそう。
まず、オリジナルヴァージョンだが、俺が持っているシングルには、タイトルしかクレジットがないので、誰がプロデュースしたのかわからない。
まず聴いてもらおう。





ラテンっぽいネタのトラックだが。
しかし、良いか、良くないかと言われれば、個人的には「あんま良くない」としかいいようがない。
JAHSONのプロデュースかどうかも知らん。
多分違う気がする。


で、今日の"俺クラシックス"はこれである。





このくせになるネタは何なんだろう。
何かリヴァースしている様な上ものだ。
スネアもJ DILLA特有のものだ。
あきらかに原曲とは異なるトラックで、実に幻想的である。
持ってない人は見つけたら即買いして音にハマってください。
たしか2、3年前に再発した気がするのでオリジナルにこだわらなければおそらく500円以内で買えるだろう。たぶん(今ヤフオクを見たら1000円から出品されてた)。


因みにレコードには何故かリミキサー名が"J.D."になってる。


因みにこのリミックス盤は99年にリリースされたものです。
あの歴史的な"WELCOM 2 DEROIT"がでリリースされる2年前程のものです。
俺はあのアルバム後のJ DILLAも好きだが、あのアルバム以前のトラックに割と好きなものが多かった。
しかし、天才も天国へ。
残念だ。


こういうトラック作りたいよね。
シンプルでくせになるやつ。


つうわけで、今回もB-BOYにはたいした役にも立たない「みんな知ってんだろうが」的な曲だったが。
これから、どんどん地下にもぐろうと思うんでよろしく。


インスト。

2011年8月10日水曜日

どうでもいい事かもしれないが......。

昨夜、友人が病気になっていたと知った。
連絡を取ったら、かなり、病状が回復してきている様で療養しながら音楽制作もしている様でひとまず一安心である。

しかし、
今、俺は
ひじょうに辛い。
ひじょうに苦しい。

ぼーっとしている事しかできない事もあれば、やりたい事があるのだが、何からやっていいのか判断がつかず、頭にきていらいらするばかりの日常だ。

頭にきて暴れたくなる事もしばしばだ。
大暴れしたくなる。
そして、過食気味だ。

睡眠も不規則になっている。
23時間位眠っている事もあれば、今の様に眠剤4日分飲んでも眠れん事もある。

キツい。

生活自体がめちゃくちゃだ。

人生を終わらせたいという欲求もどんどん大きくなってきている。
確実に。
簡単に死ねる方法といえばあれだろうが、今は時期がなあ。

自分の感情をコントロールができない。

考えてみれば去年の今頃までの俺はこんな感じに近かったと思う。
仙台に帰ってきてから、ずーっと、ただ、ぼーっとネガティブな事を考えながら横になっていた。
ここ1年間の反動が今きているのだろうか。





というどうでもいい話。



2011年7月22日金曜日

俺クラシックスその1!!!!!! GANGSTARR "MASS APEAL"

"俺クラシックスシリーズ"その1。

「人には自分だけの名曲がある。人はそれを"俺クラシックス"と呼ぶ」
 ーヨハン・セバスティアン・バッハー

自分で言っていいものかわからんが、俺もそれなりの人生をヴァイナル収集に費やしてきた。
だから部屋にもある程度のレコードがたまって、居場所がどんどん狭くなっている。
これ迄聴いてきた何万曲という曲の中で(レコードの枚数じゃないぞ)、特別な曲というのは何曲もある。

それをこの"俺クラシックスシリーズ"では紹介していきたいと思う。
メジャーどころは誰もが知るところなので、なるべくアンダーグラウンドな曲を中心に紹介していきたいかと思う。
ジャンルは特にHIPHOPとハウスをメインにしていきたい。
HIPHOPに関しては90年代の曲と、2000年代半ば迄の曲をその日の気分で適当に紹介していきたい。

え?何故いきなりこんな事はじめたかって?

ネタ切れですよ。
ネタがないからですよ。
あと、日記書く事の労力ね。
結構つかれんだぜ。
こんなクソブログでも。

で、記念すべき1曲目ですが.......

GANGSTARRの"MASS APEAL"

です。

え、どこがアンダーグラウンドなんじゃいって?
ですよねえ〜。
超どメジャーですよねえ〜。

しかし、1回目にこの曲を選んだのには深い訳があるのだ。
聞いてくれ。
10代半ば以降の俺はHARDCOREばかり聴いていた。
その間にも他の音楽も多少は聴いていたが、基本はHARDCOREだった。
朝起きてHARDCOREを聴き、寝る前にHARDCOREを聴く。
興奮して熟睡できたもんじゃなかったぜ。

他の音楽。
その中にはHIPHOPもあった。
P.E.とか、N.W.A.とか、脱退後のアイス・キューブ、そういう当時のロックファンが好みそうなのとか(サイプレスは聴かなかったし、ハウス・オブ・ペインは嫌いだったな)、ジャンブラ、ブラック・シープ、K.M.D.とかは聴いてた。
特にジャンブラの2ndは大好きだった。
今もってしても好きだ。
逆にネイティブタンでもデラとかトライブの1stはそれほど好きではなかった(トライブを本当に好きになったのは3rdアルバムからかな)。

で、20歳位になるとHARDCOREに嫌気がさしていた。
それにはいろんな理由があったがあまり関係無いのでとりあえずここでは書かない。

それで、他の音楽に興味が移っていくんだけど、特にテクノやハウス、HIPHOPを聴く様になっていた。


俺世代でHIPHOPにハマった人達の大半はRUNDMCの"WARK THIS WAY"や、ビースティーズの"FIGHT FOR YOUR RIGHT"からだろう。
COOL Jもだな。
だから、俺の年齢からすると10代半ばだ。
当然俺も"RAISING HELL"も"LICENSED TO ILL"も買った(特に前者は今でも俺のHIPHOPアルバムオールタイムベスト10に入っている)。
もう少し歳上の人達や耳の早い奴らなら映画"WILD STYLE"から入った人も多いだろう。

でも、まだ、10代の時はHIPHOPに関しては本当に好きなアーティストのアルバムが出たら買うぐらいで12インチまでは掘っていなかった。

しかし、20代に突入した後、その後の俺の人生を狂わせる強烈な曲を耳にしてしまったのである。

それが、GANGSTARRの"MASS APEAL"である。



この曲を聴いた時の衝撃たるやものすごいものだった。
何がすごいって、まず、この異常なまでのミニマルさ。
それでいてグルーブ感がすごい。
エレピの1小節ループですよ。
4拍ですよ。
展開は、フックでのプレミアお得意のきれのいい声ネタによるコスリのみ。
これで、完全な1曲の名曲として成り立ってるんですよ。
そして、やはり、プレミアのトラックにはグールーの声がしっくりくる。

正直、GANGSTARRの2nd"STEP IN THE ARENA"などはあまり好きではなかった。
日本のメディアが(特にREMIX)当時ジャズラップ等と括ってたのも好きになれなかった。

しかし、4thアルバムからの1stカットであるこの曲で、完全にノックアウトされたんだね(3rdアルバム""DAILY OPELATIONもいいアルバムですよ)。
「ああ俺はこれからずっとHIPHOP聴いていくよ」と。

実際にはHIPHOPの影響でSOULやJAZZも聴いていたし、ハウスも聴いていたけど、その根っこはHIPHOPなんだな。
コスリも2枚使いもできんが......。
でも、HIPHOPに出会わなければSOULやJAZZをはじめ世界中の音楽を掘っていくという作業をし続ける事はおそらくなかったんだな。

話を戻すと、このちょっと前辺りからプレミアの快進撃ははじまっていたんだけど、この辺りからの勢いはすごかった。
出す曲出す曲ハズレ無し。
ジェルー、グループ・ホーム、ギャングスター・ファウンデーション(ビッグ・シュグやアフラもいたな)以外への楽曲提供。
プレミアがプロデュースってだけで試聴もせずに全て買ってた。
ついでだから動画はっておく。



"MASS APEAL"の次にカットしたシングル。
2小節ループとフックのスクラッチだけ。
これも名曲。



このトラックを聴いた時の衝撃もすごかったな。
「なんだこのネタは?」って。
「この水滴の様な打楽器の音とスクラッチだけで1曲作んのか。マジか。ヤベーよこれは!!!!!」って。
誰もが思ったと思うけどね。
そして、ジェルーのラップはカッコいい。
この後、アングラHIPHOP界で変なネタをループしたトラックが流行った気がする(その中にはカッコいい曲も、どうしようもない曲もあったな)。



これもフリップしたネタがヤバい。
そして、やはりジェルーのラップはカッコいい。



名曲"JUICY"の12インチのカップリングで入ってる。
このフリップ具合は素晴らしすぎる。
ビギーの1stアルバムは素晴らしいが、実はこの曲が一番好きだ。



この曲も今聴いてもヤバすぎる。
カメオのある曲の2小節を、前半と後半を入れ替えて作られているらしい。
2人の正反対のキャラのたったラップもかっこいい。



ファット・ジョーにもこういう時代があったんですよ。
ネタが大好きだ。
ドラムはこの頃はまだ、バラして打込みではなく、ループの様だ。



NASの歴史的名盤であるデヴューアルバムに収録。
このアルバムは言うまでもなく、当時のNYのプロデューサー界の精鋭大集合の上に最高のラッパーという素晴らしすぎる内容。

という訳で、いきなり超どメジャー曲からはじまった『俺クラシックス』ですが、俺がこのヴァイナル地獄に(いや天国だな)ハマってしまうきっかけを作った曲、そして、いまだもってして、俺の中で一番好きなHIPHOPの曲なんでどうしてもこの曲からはじめたかったんですね。

では、今後も『俺クラシックス』。
不定期ですが、曲紹介していくんでよろしく。
多分、次からはちょっとずつアンダーグラウンドになっていくと思うよ。

2011年6月26日日曜日

MICHAEL FOREVER!!!!!

少しばかりタイミングを逃したが、書きたいので書く。



名曲だね。
はじまりからカッコいい。



かっけー。マジかっけー。



まじヤベー。



これもマジヤバ。
ジャネットも拍手。



うーん。カッコよすぎる。
マーティン・スコセッシが監督なんだよね。
ウェスリー・スナイプスも出てる。



当時はこれ爆笑して観てたけど、今観ると結構良くできてるね。



この聴いてるだけで、観ているだけで、わくわくする感じはなんだろうね。



もう、こんな才能の塊みたいな(勿論人一倍努力もしている訳なんだが)天才は出てこないだろうなと、今日、YOUTUBEを観ながらあらためて思った。

マイケルよ永遠に。

2011年6月21日火曜日

まったく興味の無いサッカー観戦に行ってきたぞ!!!!!

もう先週の事ですっかりタイミングをハズしているが、書きはじめていたので書く。

先週、生まれて初めてサッカー観戦というものに行ってみた。

正直、サッカーにはなんの興味もない。
サポーターの独特のノリというのも苦手だ。
しかし、チケットが当たったというので、渋々行く事にした。

俺の知ってるサッカーの知識といえば、ボールを相手側のゴールに入れればいい事。
ボールを手でさわってはいけないという事ぐらいだ。

果たして、前半45分、後半45分、正味90分を俺は黙って観ている事ができるのだろうか?
不安はつのるばかりである。

重要なところを忘れていた。
その日の試合は『ベガルタ仙台』対『ガンバ大阪』@ユアテックスタジアムである。
ベガルタは現在のところ無敗との事だ(引き分けは結構あるみたいです)。

その日は見事な晴天であった。


平日なので満席ではなかったがそこそこお客さんも入っていた様だ。


試合開始。
しばらくは両チームさほど大きな動きは無かったが、ベガルタには前半に3回程チャンスがあった。
しかし、それを物にできなかった。

この状況を、例えて言うなら、俺が函館に独り旅に行った時、箱館山のロープウェイで上りの時に、2人の俺好みの女の子に声をかけられなかった事。
そして、下りの時偶然にも一緒に、しかも今回は係員さんを除くと俺とその女の子達2人だけしか乗っていないという好条件でありながらやはり声をかけられなかった事。
そして、極めつけは、翌日、函館駅近くのデパートで時間をつぶそうと思ってその入口に向っていた時、偶然にも昨夜の女の子2人が横断歩道を渡ってきて入口ではち合わせした(これは完全に愛の女神の俺に対する助け舟であったであろう)にも関わらず、やはり声をかけられなかった事。
この情けなさ満点の一連の事件。
これを『函館の悲劇』という(ウイキペディア参照)。

そう、この『函館の悲劇』にも似た状況が、先日の前半戦のベガルタにはあったという事だ。

ん...........。

違いますか?



前半は両チーム無得点のまま終わった。

前半の最中、不明な点があった。
俺には何もしていない様に思えるのに、何故か、審判が旗をあげて試合が中断する。
親父に聞くと『オフサイド』というルールだそうだ。

オフサイド/ウィキペディア参照


後半開始。

しばらく動きは無かったが、ベガルタが1点先取。
このままいってくれよと思う。

しかし、もうしばらくすると今度はガンバが1点入れる。
先が分からなくなってきた。

しかし後半残り5分程で更にベガルタが1点入れる。


高鳴る歓声。
今度こそこのまま逃げきってくれよと思う。

そして、無事逃げきり、2対1でベガルタが勝利したのであった。


会場は歓声の渦にわいた。

ここで、ふと気付く。
俺は何なんだ。
まったくサッカーに興味が無いのに最後まで観れて、しかも、最後にはベガルタの応援にまわっているではないか。
これが、生でスポーツを観戦するという楽しさなんですかね。

考えてみれば、野球もそうだった。
俺は、野球にもまったく興味が無い。
しかし、東京に大のヤクルト好きのDr.P氏という友人がいる。
東京時代、彼と俺は同じ職場にいて、俺は何度も断っていたが、彼の熱意に押され、遂に興味の無い野球を観に行く事になった。

行く前は憂鬱だった。
しかし、試合が始まると
「なんか思ってたよりおもしれえな」
という気持ちになった。

テレビ中継の様にテレビにかじりついている事も無く、俺たちは適当にコーラなど飲みながらだべったりしていた。
そして、"カキーン"って選手が打ったらマジで観るみたいな、ちょっと適当感漂うところが良かった。
こういうのも生で観る時のひとつの楽しみ方かなと思った。
あの時は5時間を越える長丁場だったがまったくダレル事がなかった。
しかし、元々、男2人に女子1人で観に行くつもりだったのが、変な女が1人ついてきたのがいらつくところではあったが。

話をサッカーに戻す。
なんか、楽天もそうなんだけど、地元にスポーツチームがあるとなんか地元だって事だけで感情移入してしまいますね。


選手達に拍手と歓声。

まあ、だからといってサッカーに興味が出たかというと、前と変わりなく興味が無いのだが、でも、まあ、スポーツを生で観るおもしろさを体感できた一日であった。
そして、今後のベガルタの成績は、楽天と共に気になる事だろう。
















































っていう、普通の日記でいいですか?

2011年5月30日月曜日

退院したぞ。

一部の方々は知っていたかと思うが、人生2度目の電波系病院、いや精神病院に入院したのである。
つい3週間程前の話だ。

しかし、つい1週間程前に自主的に退院した。

皆さん。
御報告遅れまして、どうもすいません。

なんで、退院したのか?
「異常に苛つくんだろうなこいつと絡むと」
という、トドみたいなおっさんがいた。
病人のくせに態度のデカイ大バカ野郎だ。
長い事、あの病院に入院しているらしいが、
いらつくんだよ。
てめえ。ぼけ!!!!!

そんな奴とは話もしたくねえんで、奴のいる場所には近づかない様にしていたが、運命のいたずらか、病院の策略か、そいつと同じ部屋に移動されてしまった。

はじめから分かってたよ。
この部屋じゃ長く持たねえなって。

で、翌日。
事件があった。

俺のいびきがうるさいのは一部では有名だ。
だから、俺のいびきに関して文句があったのもわかんねーでもねー。

しかしな。
おめえ、何様だ、こら!!!!!

寝てる俺を何度も起こそうとしたが起きなかったと言う。
ちょっと待て。こら!!!!!
なんでトドみてえなつらと風体したブッサイクな患者のおっさんが、患者の俺を起こそうとしてんの?
は?
普通は看護士さんに相談して、看護士さんにやってもらう事だろうがよ。
そういうのよ。
なんで、患者のおめえが患者を勝手に起こそうとしてんだ。こら!!!!!
おかしいだろうがよ。ぼけ!!!!!

で、詳しくは書かねーが、最後に完璧に俺が切れる寸前までいったとどめの言葉が

「あんた1人じゃないんだからさ」

だ。

おい。こら。トド!!!!!
俺が1人じゃないのは分かってっけど、おめえは何様なんだ。こら!!!!!
おめえが、1人で騒いでんのを俺はだまって(ふてくされながらだが)聞いてんだよな。
おかしいだろ。クソボケ!!!!!
1人じゃないんだからよ!!!!!

しかし、そこで、暴言を吐いたり、暴力に訴えてはいけない。
なぜなら、そこで暴言、暴力を行使すると、強制退院させられるからだ。
そうなると、おそらく、あの病院に通院もできなくなるだろう。
せっかく、役に立たない医者から、頼りになりそうな先生に変わったのにそうなると、ひじょうに残念な事になる。

だから、そこは耐え、まずは、看護士に相談した。

「あのおっさんと同じ部屋にいると近い内に切れるし、あっちも黙ってはいなそうなおっさんだから、下手すれば殴り合いにでもなりかねない。それは、病院側も望んでないでしょ。俺も強制退院とか望んでない。だから、あのバカと違う部屋に移動させてもらえないですかね」

すると、
「よくわかりました。上司に相談します」
と丁寧な対応をしてくれた。
どうも、病院内でもあのバカは問題視されている様だ。

しかし、しばらくすると
「月末迄ベッドの空きがでないという事がわかりました。そうなると.....その間耐えるというのは.....きついですよね...........」
と言ってきた。


「無理ですね。切れますね」(苦笑)
「最近精神面のコントロールができずにすぐ切れる。だから、それを直す為にここに来た。でも、あのおっさんと同じ部屋で過ごすという事は入院前より切れやすくなるなるという事なんで逆効果だよね」

と言い放ち、その夜、俺はマイケル・マイヤーズという退院予定の患者と入れ替わってまんまと脱走した。
ルーミスという医師が執拗に追ってきたが、俺はそれを全てうまくかわした。



でもな。
これで終わりじゃねーんだよ。
あのトドみてーなおっさん。
ジジイ。
てめえは、俺が今年中に殺す、
いや、ぶち殺すリストにめでたい事に入る事になったぜ。
おめえのなめーは知らねー。
だから、ここで、本名出して、攻撃したり、掲示板に名前出して殺人予告する事もできねえ。
てめえの顔写真と名前を入れて『こいつマジキチガイだから注意!!!!!』っていうビラを病院周辺に巻く事もできねー。

だがな、おめえの事は常に監視してぶち殺すタイミングをはかってっかんな。ぼけ!!!!!!
おめえは死ぬんだよ。ぼけ!!!!!
もう一度言う。
おめえは近々死ぬ。
俺にぶち殺されるんだよ。クソが!!!!!
念の為もう一回言っとく。
おめえは俺にぶち殺されるんだよ。
近々な。
死ぬんだよ。ぼけ!!!!!

どうせ、キチガイ病院に長い間入ってんだから、死んでも変わんねーだろ。
おめえのそのくそみてーな人生に終止符をうってやるっていってんだから、感謝しろ。ボケ!!!!!

とにかくおめえの事は近々ぶち殺す。
黙って、死ねや。
泣いても、土下座しても遅えーからな。
てめえは死ぬ。
脳みそぶちまけて、腹わた引きづり出してぶち殺すかんな。ボケ!!!!!




俺は"キャプテン・スポールディング"の様に舞い、"オーティス"の様に刺す。



いろいろな殺し方があって迷うところだ。
しかし、やはり1位のやつだろうか。



やっぱこれだな。
チェーンソー。
あのクソっつうか、ハエのたかったウンコみてえなトドみてーな顔したおっさんの顔面とか体とかずたずたにジグソーパズルみてーにバラしてぶち殺す系だな。







































読者の皆さん。
楽しんでいただけました?

2011年5月11日水曜日

すまんが震災の事に関して書くという括りはやめる事にする。

俺は、いくつか前の日記に於いて「しばらくこのブログは震災関係の事に関してかかせてもらう」という様な事を書いたが、ちょっと勝手だが、その括りをやめる事にする。

実は、ちょっと前から、俺自身が震災の日から現在迄に、見たもの、感じた事、そして、友人から聞いた事などをまとめてみようと思って文章を書きはじめたのだが、あれほどひどい事があったのにも関わらず、その記憶が薄れていたり、大事に想っていた女性の死を知った事による個人的な精神状態の変化があったり、好きな女性に好きだという想いを伝えて玉砕したり(笑)、感情のコントロールが上手くできずに友人に罵詈雑言浴びせたり(その後和解しましたけどね)、まあ、いろいろあってなかなかまとまらない。
だから、その文章に関しては、今後も書き足したり修正したりしながら、ある程度公表できる文章になった時点でアップしたいと思っている。

また、今後の宮城県内の状況の変化に関しても、不定期ではあるが、書いていこうとは思っている。

ただ、今の俺の精神状態で、震災の事だけに括ってしまうのは正直しんどいというのがあるし、本来、俺がここで書きたい事が書けなくなるという部分もある(まあ書きたい事とか言っても、まあ、キ@ガイ系の文章とか、くだらんガセネタとか、趣味的な話とか、そういう他人にとってはどうでもいい事だが.....)。

だから、震災括りはひとまずやめようと思う。
その事に関しての記事を読みたいという人も中にはいるかもしれないが、なかなかしんどい作業なので勘弁してくれ。
少しずつ書いてはいくから。

ただ、これだけは言っておきたい。

宮城県が、震災前の様な状態に戻るには、おそらく10年、もしかしたら20年以上かかるだろう。
そして、沿岸部に関しては元の状態には戻らないかもしれない(あの津波を経験した人々が、また沿岸部に住みたいかというと、おそらく圧倒的に住みたくない人々の方が多いだろう)。

だから、本当の意味で
『宮城県に降り掛かった震災が終わった』
と言えるのは20年以上先になるかもしれない。

被災した人々も、俺の様に内陸部に住んでいて目に見える被害をほとんど受けなかった人々も、皆、何かしら、失ったものはあるだろう。
物の見方、価値観などを根底から変えられてしまった人々も多いだろう。
そして、全てのものが元にもどるという事はないだろう。

でも、各地域が、ある程度元の状態に戻った時、初めて
『震災が終わった』
と言えるんじゃないかと思う。

それだけ。
言っとく。

2011年4月9日土曜日

ますみへ。楽しい時間、充実した時間をくれてありがとう。安らかに眠ってください。

今回書く事は俺のまったく個人的な事で、本来、自分の心の中にしまっておけばいい事なのかもしれない。
しかし、どうしても何か文章かなにかの形で残しておきたかった。
はっきり言って、自分の気持ちを少しでもはきだして、少しでも自分を納得させる為だけに書く事なんだ。
これを書いた事で俺の心が平穏になるという事はない事は自分でもわかっているが、ここで書く事ぐらいしかはけ口がみつからないので、書く事にした。



先週の金曜日に石巻の沿岸部の3カ所の村をまわり、とてつもない光景を目にした。
俺の想像を遥かに上回る本当にショッキングな光景だった。

そのせいか、現在付き合いのある友人・知人の安否はもうわかっていたが、過去に親交のあった友人・知人・恋人の安否も気になった。
だから、相手にとっては迷惑な事かもしれないという事も承知の上で、連絡先を知っている限りの人達に連絡をとる事にした。

その中で、一番、気になっていた人がいる。
どうしても、声を聴いて安心したいと思った女性がいた。
20年近くも前に付き合っていた女性だ。
『ますみ』という娘だ。

もう10年以上、いや15年ぐらい前に逢ったのが最後だし、その後、俺も他の女性と付き合ったりしていたし、連絡をするのも迷惑かもなと思っていた部分もあり、彼女との交流は、最後に逢ったときから無かったが、俺にとってはいつでも特別な存在だった。
俺ももう40間近のおっさんだし、それなりに何人かの女性と付き合ってきたが、彼女と付き合っていた時期が俺の人生の中で一番楽しい時だったという事ははっきり言える。
今迄生きてきた中で圧倒的に楽しい時期だった。

俺は女性と付き合う時、そんなに心からのめり込む方ではない(自分が見えなくなる程女性に対してはまる方ではないというか、どこか客観的なところがある)と自分では思っている。
だから、女性と別れる時もそれほどダメージは無い。
しかし、彼女と付き合っている時だけは違った。
本当に心の底から愛していたし、とにかく彼女のすべてが好きだった。
いつも一緒にいたかった。

誰にでも、そういう存在がいると思うし、それが、今付き合っている人であったり、結婚した相手であればその人はすごく幸福だと思う。
残念ながら、俺とますみの恋愛は1年もしないで終わってしまったが。

俺と彼女が付き合っていた頃は、携帯電話等は普及していなかったし、当然、俺の携帯の連絡先に彼女の電話番号が登録されている筈も無いが、彼女の実家の電話番号だけは覚えていた。
とてもわかりやすい当て字で覚えられる番号だったし、当時も連絡先を書いたメモなど見なくてもその当て字で覚えてしまっていたので、今でもはっきりと覚えていた。

実は、数日前、彼女の実家には電話をかけていたのだが、その時はお母さんが電話口にでた。
俺は「ご家族無事ですか?」とたずね、「無事です」とお母さんが言っていたので、名前を聞かれたが、名前は答えずに「無事で良かったです」といって電話を切った。

しかし、あの石巻での光景を見てから、本人の声を直に聴いて無事である事を確認しないと落ち着かないので、もう15年近くも会っていない男に突然電話をかけてこられて迷惑だと思うかもしれないという気持ちもありながらも、やはり、電話をして本人と話をしようと思い、再度彼女の実家に電話をかけた。
もし、彼女が独身で実家にいるのなら直接声を聴けるかもしれないし、結婚して別な場所に住んでいるのなら、ご家族から、安否や現在彼女が幸せに暮らしているのかなどの話を聞ける。
それで、俺も安心できると思っていた。
正直なところ、まともな男と結婚して子供がいて幸せな家庭を作っていてくれればそれでいいと思ってもいた。

で、電話をして、お母さんがでたので、自分の名前を伝えた上で「以前、ますみさんと交流があったものですがますみさんはいらっしゃいますか」と尋ねた。
すると「もう一度お名前を教えてもらえますか」とお母さんが言ってきたので自分の名前を再度伝えた。

そこで、お母さんからまったく予想もしなかった衝撃的な言葉を聞いた。
「ますみは13年前に亡くなったんです」

はじめは、理解できなかった。
「え!どういう事ですか?」
と聞き返した。

そして、お母さんから、彼女が13年前、24才の時にタイに旅行中に病死したと知らされた。

頭の中がパニックになりながらも詳しい事を聞いていった。
彼女は子供の頃心臓が悪くて大手術をしたのだが(俺と付き合っていたときも胸の真ん中にはっきりと手術の跡が残っていた)、タイに旅行中に病気になり、彼女の心臓に合わない薬を投与された事が原因で亡くなったという事だった。

もう、話を聞きながら涙が次々とあふれ出てきて、冷静になろうと思うんだが、もう、頭の中が混乱すると同時に彼女の生前の姿(俺と付き合っていた頃の姿)が思い出されて更に涙が出てくるし、言葉につまり、お母さんに「ちょっと。すいません.....ちょっと今.....すいません.....」と何度も言いながら話を続けた。
お母さんも泣いていた。

そして、仏壇に手を合わせに行きたいと伝えたのだが、地震の影響で大変らしく、「少し時間を貰えますか」と言われた。
それであればせめて墓参りだけでもさせてほしいので場所を教えてほしいと伝えた。

彼女の墓は松森にある寺にあるという事を聞き「明日伺います」と言った。
すると、お母さんも「明日仕事が休みなので私も行きます」と言ってくれた。

翌日、寺で会う事にして電話を切ったが、いつ迄たっても涙がおさまらなかった。
おそらく、これほど号泣したのは10年以上ぶりだろう。
最後に泣いたのはもっと前かもしれない。

思わず、誰かに話したくて、俺と彼女の関係を知っている数少ない友人、チヨに電話をしてしまった。
そこでもやはり号泣してしまい、迷惑かけたが、彼女は特に無理に励ます事も無くただ単に普通に話を聞いてくれた。
その事にすごく感謝だ。

情けない事に、親にも泣いてるところを見られてしまい、変に気を使ってくるので、正直その事自体キツかった(両親には悪いが正直うざかった。そっとしておいてほしかったというか、何も無かった様に無視してもらった方がよかった)。
そして、家にいるのも辛かったし、喋らなくてもいいからとにかく外に出たかったのでとりあえず家を出た。

誰も知ってる人がいないバーにでも行こうかとも考えたが、結局、やはり、なんとなく、先日迄お世話になっていたジョニーズ・ダイナーに行ってしまった。

店にはジョニオさんとともえさんがいて、アキヒコさんがお客さんとして来ていた。
皆の顔を見て少しホッとした。

彼女が亡くなっていたという事実を少しの時間だけでも忘れたかったので、普通の話をしようと思った。
アキヒコさんと会うのは震災以来はじめてだったので、アキヒコさんやちあきさんの震災時の状況や、近況などを聞いたり、俺の近況など話したりして、結構リラックスできていた。
しかし、なんの話からそうなったのか覚えていないが、ちょっと皆さんの前で、みっともないところを見せてしまった。

ちょっと感情が抑えられなくなって。

皆、やはり、特に無理に励ます様な事も言わず、黙って聞いてくれ、時にちょっとした意見をのべてくれた。
配慮して下さったんだと思う。
その事だけでちょっと気持ちが落ち着いた。
感謝だ。

しばらくすると、一郎さんが来て、彼と会うのも震災後はじめてだったので、なんか直に会えてほっとしたし、ようじの会社が継続する事、ようじの家が決まった事、ようじがやる気なので"BANISH ARMS"が活動再開するという事を聞けてひじょうに嬉しかった。
俺はバニッシュが今のメンバーのまま継続する事を願っていたし、それが実現する事を信じていた。
それが、1年後でも2年後でも待ち続ける気持ちでいたので、最近ずっと"BANISH ARMS"のTシャツを着ていたのだが、こんなに早く実現するとは、とにかく嬉しい知らせだった。
4月23日のライブでは"SEED"も"BANISH ARMS"も見れるわけだ。

閉店間際、ジョニオさんと俺だけが店に残っていた。
先日迄は、俺もジョニオさんの側に立っていたわけだが、今は俺はカウンターに座っている。
ジョニオさんがジョニオさんなりの意見を話してくれた。
俺は、黙って聞いていた。
そして、とにかく墓参りに行って彼女に俺が伝えたい事をちゃんと伝えようと思った。

その日はジョニーズに置いてあった自転車で帰った。
でも、やっぱり、帰る道中、彼女の事が頭をよぎり涙がでてきた。
もう、彼女と話す事はおろか、彼女の姿を見る事、彼女に触れる事も何もかもできないんだと考えながらゆっくり帰った。

眠れそうにないので睡眠剤を大量に飲み横になった。

朝ちょっと遅めに目覚め、線香とろうそくを用意し、昼頃寺に向った。
途中花屋さんにより、「お墓参りにいくので」という旨を伝えた。
彼女にはカラフルな明るい花がふさわしいと思ったので「墓参りでも問題無いなるべく明るい色の花を見繕ってください」とたのんだ。
店員のお姉さんはとても親切に対応してくれた。

寺に付き、お母さんに電話をいれた。
しばらくするとご両親が来られた。
ご両親とは、はじめて会った。
とても親切な方々だった。
そして、俺が墓参りに来た事を感謝してくれていた。
俺の方としては、忙しいところを時間を作ってきてくれた事に申し訳ない気持ちもありながら、ますみのご両親に会えた事は嬉しかった。

震災の影響で墓石が倒れている墓もあったが、ますみの墓はすこしずれただけで済んだそうだ。

ますみの墓の前に着いた。
そこで、あらためて、もう直接話す事も、あの明るい姿を見る事もかなわないんだなあとあらためて思った。

まず、墓石をきれいにしてあげた。
できるかぎりきれいにしようと思った。
そして、花を生け、ご両親が持ってきたお供え物、俺が持ってきた梅酒を墓石の前に置き、
3人で線香をあげた。

手をあわせながら、頭の中で伝えたい事を伝えるが、伝えたい事がありすぎる。
ご両親の前で泣かないつもりでいたが、感情が抑えられなくなり、号泣してしまった。

お母さんは
「ますみお友達が来てくれたよ」
と言って涙ぐんでいた。

墓石に掘られた
「ますみ 24才」
という文字を見て、更に悲しみが止まらなくなり、涙が止まらなかった。
俺が生きてきた年月の半分とちょっとしか彼女は生きられなかった。
まだまだやりたい事はたくさんあった筈だ。
彼女は好奇心おう盛だったし、すぐ行動にうつすタイプだった。
俺と最後に逢ったのも2ヶ月程、ニューヨークに滞在して帰って来た時だった。
無念だったろうなあと思う。
悔しかった筈だ。

何故、彼女の様な人生に意義を持って明るく生きてる娘が24才で亡くならなければならなかったのか?
そして、俺の様に人生に投げやりになっている人間が未だに生きているのか?
もし、神などというものが存在するとすれば、その仕打ちはあまりにも残酷すぎる。
不公平すぎる。

タイでは遺体を焼いたあと、骨は川に流す習慣があるという。
ますみをむかえに行ったのはお父さんで、現地に骨壺は無いので、遺骨を入れられるものを用意して彼女の遺骨を入れて日本に帰ってきたという。
だから、お母さんは彼女の死に顔すら見れなかったという。
彼女がタイに行ったのは3回目だったという。
タイの国民性やタイの人の人柄がすごく好きだったそうだ。
最後にタイに行くときお母さんは
「ますみ、どうしても行かなきゃいけないの?」
と、聞いたが、彼女は笑顔で旅立っていったという。
お母さんが彼女を見たのはそれが最後だ。

2回手を合わせ、涙が止まらないまま、お母さんに「俺の人生の中でますみさんと一緒にすごした期間が最も最高の時でした」と伝えるが、うまく言葉にならなかった。

「あの娘の写真が何故かあまり無いんです」
と言いながら、お母さんが俺にますみの写った写真をくれた。
それは、彼女がメインで撮られた写真ではなかったし、なにかの行事で和服を着て髪もいつもと違う様にセットされていたし、メイクもいつもと違っていたので、俺がいつも見ていた彼女の雰囲気とはかなり違っていたものだったが、貴重な写真を俺の様な人間にゆずってくださったという事にすごく感謝するとともに、あらためて涙が出てきた。

最後にもう一度手をあわせて
「安らかに眠ってくれ」
「そして時々でいいから俺の事も見ていてくれ」
と伝えた。

その場を離れたくなかった。
ずっと居たかった。
お母さんは「また来てあげてくださいね」と言った。
そして、彼女の妹が先月結婚した事を教えてくれた(彼女と妹さんはかなり年がはなれている)。
「ますみの分も幸せになってくれればと思ってます」
と、お母さんは言った。
俺も同感だった。
妹さんとは会った事はなかったが、俺と彼女が付き合っていた頃、妹さんはまだ小学生だった。
本当にますみの分も幸せになってほしい。
幸せな家庭を作ってほしい。

ご両親にもう一度、挨拶をし、近い内に仏壇に手をあわせに行く事を伝え、車で帰っていくのを見送った。
寺の前でしばらく、動けなかった。

バイクで帰る途中、彼女の事が頭の中に浮かび、涙が止まらなかった。
このまま、家に帰る気がしなかったので(家に独りでいたらおかしくなりそうだった)、レコード屋や本屋によって気を紛らわした。

その後、深夜迄、近所のファミレスにいた。

家に帰ると、精神的に疲れ果てていたので、ひとまず多量の睡眠薬を飲んで寝た。

起きてから精神科に行き、強めの抗鬱剤を出してもらった。
午後、ある場所で友人数名と会い、今回の震災に関しての話などしていた。
その間は、少し気がまぎれた。

夕方、その場所を出て、やはり家にすぐに帰る気にならなかったので、近くの古着屋に行った。
店長さんと、やはり震災の話などし、その後、その系列店に行った。
そこの店員のお姉さんとの会話はとてもおもしろかった。
ちょっとだけ、気がまぎれた。


家に帰って、この文章を書き始めた。
途中、知人から電話がきたが、最初のうちは、正直うわのそらだった。
正直、知人には悪いが、早く電話を切りたかった。

電話を切って、文章のつづきを書きはじめた。
その間にも、何度も涙があふれてきた。
朝になり、さすがに休みたいと思い、つづきは目が覚めてからにしようと思った。
考えがもう少しまとまってからにしようと思った。
睡眠薬を多量に飲んで寝た。

目が覚めると、24時間以上寝ていた様だ。

亡くなった当時、彼女にとっての俺はただの過去の男だっただろうし、俺も別な女性と付き合っていた。
でも、いつでも、他の女性と付き合っている時でさえ、彼女は俺にとって特別な存在だった(こう書くとなんかストーカーのようだが)。
今後、俺も誰か他の女性と付き合う事はあるだろう。
結婚や家庭を持つという事には正直まったく興味が無いが、結婚する事もあるかもしれない。
しかし、彼女との楽しかった思い出、明るかった彼女の姿、彼女との記憶が、俺の心の中から無くなる事は一生無い。


彼女には、俺とはもうまったく関係のないところでいいから幸せに暮らしていてほしかった。
幸せな家庭でも作っていてほしかったし、もし独身でも、好きな事、やりたい事をたくさんやっていてほしかった。

しかし、彼女は24才で生涯を終えていた。
やりたい事をたくさん残したまま。
もう、彼女の声すら聞けなければ、彼女の姿を見る事もできない。

今回、震災があった事によって偶然にも彼女の死を知ってしまった。
彼女は今回の震災で亡くなった訳ではないが、ある意味、彼女の死によって、1人の人間の死がまわりの人々にどれだけのダメージをあたえるのかという事を実感させられた気がする。
もう15年も逢ってない人間に何を言ってんの?という奴もいるかもしれないが、はっきり言うがそういう奴の意見など、まったくどうでもいい。
俺にとっては、何年逢って無かろうが特別な女性だからだ。

石巻に行った時、爆撃を受けたかの様な、一面のがれきと損壊した車以外なにも残っていない村をたくさん見たし、100数名いた子供達が80数名以上亡くなった村にも行った。
そういう光景や話を聞いて「酷い」とか「惨すぎる」とか、思う気持ちがある一方、どこか、本当の意味でその根幹みたいなものを理解していなかったと思う。
自分の目の前で悲惨きわまりない光景を見たり、惨い話を聞いても、やはり、なにか人ごとの様な気持ちでいたのだろう。

こう書いたら、きれい事だと思われるだろうが、彼女がそういう事を教えてくれたのかもしれない。

お墓参りから帰って数日たち、普通に喋れる様にもなってきたし、人とコミュニケーションをとれる様にもなってきた。



ここから書く事は、乱暴、暴言だと思われるかもしれんが俺の私見として書かせてもらう。

俺は、自殺したい人には自殺をする権利はあると思ってるし(勿論、それを避けられる事が一番いいに越した事はない)、現に俺も自殺を試みて結局未遂に終わってしまった事もあった。
「生きたくても生きられない人が.....」「残された人々の悲しみが.....」などという意見を言う人も多いと思うが、もちろんそれも一理あるとは思うし、まっとうな意見だろう。
でも、自ら死を選ぶ迄の精神状態になった人間にとってそんな言葉は何の役にもたたない。
それぞれ境遇は違えど、なんかしらの形で精神的にとてつもないダメージを負っていたり、生きる事自体が拷問の様だというか、苦痛以外のなにものでもないから死を考えるまでにいたってしまうという事だからだ。
実際俺も、毎日、一日中『死』しか考えていない時期があって、結局、半年ほど精神病院に入院した事もあった。
今も抗鬱剤がないと普通にものが考えられないし、睡眠剤が無いと眠れない。
幸い、俺には支えになってくれる友人がたくさんいて、彼らに助けられながら生きている。おかげで自殺願望も最近は滅多に無くなった。
ただ、そういう支えになってくれる友人さえ、いない人々もいる。
そういう人達にとって、いくらあかの他人が何を言おうと、何の支えにもならないんだ。
「がんばれよ」とか言われても、がんばってもがんばってもどうしようもなくなってんだから、そんな言葉は当然響かない。

そして、所謂、尊厳死に関しても俺は肯定派だ。


しかし、自分の意志とは関係ないところで人が死ぬという事にはどうしても納得がいかない。
生きたいと思っている人、生き甲斐を持って人生を送っている人が突然死んでしまう事には納得がいかない。
やりたいことや夢、目標がたくさんある人がいきなり死んでしまうという事にはやはり納得がいかない。


ますみも、今回の震災で亡くなった人々も皆、自分の意思とは関係無いところで突然人生を終える事になってしまった。
やはり、その事にはどうしても納得がいかないんだ。

だから、俺が今後どのような死に方をするのかはわからないが(人生に失望して自殺するかもしれないし、事故にあって死ぬかもしれないし、もしかしたら長生きして老衰で死ぬかもしれない)、どういう死に方をするにしろ、生きている間は、生きている今は、やりたい事をやりたい様に全力でやるしかないと思っている。

ますみはやりたい事をたくさん残して亡くなった。
その分、といってはきれい事と思われるかもしれないが、彼女の分まで、俺が生きている間だけはやりたい事をやりたいだけやる事、全力で動く事。
それを実行していこうと感じた。

皆にも言いたいのは人間の命っていうのは、本当に儚いものだと思う。
だから、生きている間だけは、やりたい事をやれるだけやりまくってほしい。


この文章は精神状態が安定していない時期から書きはじめて、今まで何日かにわけて書き足していったので、正直、うまく伝わらないかもしれないが、読んでくれた人には感謝する。


ますみへ。

楽しい時間をありがとう。
充実した時間をありがとう。
天国で安らかに眠ってくれ。
そして、たまにでいいから俺の事も見ていてくれ。
ありがとう。


彼女とよく一緒に聴いた曲達。









彼女は当時ネオアコとかギターバンドとか好きで、俺はハードコアから別の音楽に趣味が移行していた時期だった。
彼女からは、いろいろなネオアコとか今でいうシューゲーザーみたいのを教えてもらった。
残念ながら、アーティスト名やタイトルをほとんど忘れてしまったし、すごく好きだった曲がYOUTUBE上にUPされてなかったりする。
お互い"2nd サマー・オブ・ラブ"みたいな文化、音楽は好きだった。



彼女に貰ったレコード。名曲。↑

俺が彼女に無理矢理聴かせてた曲。↓



自分が音楽を聴く時、歌詞を気にして聴くという事は一部のジャンルをのぞいてはほとんどない。
この動画とか載せると、ふざけてるのかと思われるかもしれないが、今、本当にこんな気持ちだ(ストーカーみたいだと思われるだろうけど)。
もう、遅すぎるが。

2011年4月4日月曜日

ちょっと今日は震災とは関係無い個人的な事を書かせてもらう。

震災後に、しばらくこのサイトに関しては震災に関する事を書こうと思うと言った。

先日、沿岸部に行って、自分の目で地獄の様な光景を見てきたので、その事に関して書くつもりではいたし、早急に書かねばいけない、伝えなければいけないとは思っていた。
例え、このブログを10人ぐらいの人しか見ていないとしてもだ。

しかし、今、俺にとって、その地獄の様な光景すらどうでもよくなるぐらいショッキングな事実が発覚して、自分がとてつもない悲しみの中にいるので、こんな時に申し訳ないが、今日は震災関連の事ではなく、その事に関して書かせてもらう。

本当は、昨日のうちに書きたかったのだが、頭の中が混乱してまとまらずにいたので、書けなかった。
そして、今はやすみたい。
だから、今は眠剤をたくさん飲んで横になりたいと思う。

朝、目覚めて、精神状態が落ち着いていたら、考えがまとまっていたら、昨日書きたかった事を書こうと思う。

まったく個人的な事だけど。

2011年3月26日土曜日

メディアの流す情報は信じるな!!!!!!!!

これから書く文章には賛否両論あるだろうが、とにかく書かないといけないと感じたので書く。


また、風評被害を助長するものではまったくないので、その点は組んでくれ。


『メディアの流す情報は信じるな!!!!!!!!』
と書いたが
『メディアの流す情報が全てではない。あれはほんの一部だ』
と言った方が正しいのかもしれん。






この日記は宮城県仙台市に住む人間が書いている。
という事は、読んでくれている人の中には知っている人も多いと思うが、はじめて見にきた人への自己紹介として書いておく。




で、本題。


仙台市の中心部。
名掛丁や一番町を中心とした繁華街だが、営業を始める店も多少なりとも出てき始めており、少しずつだが、活気を取り戻せてきている気がする。
宮城県各地でも(被災が酷い地域を除けば)電気がかなりの範囲で復旧している様だ(様だというのは、東北電力のWEBサイトをはじめ今現在の状況が掴める記事が見当たらないからだ)。
ガスも当初「復旧には早くても1ヶ月以上はかかる」と言われていたが仙台市に限って言えば、被害の激しかった沿岸部を除けば今月末迄にかなりの地域で復旧する見込みだそうだ。↓
仙台市ガス局:各地域のガス管修繕及び供給再開時期について
ガソリンは相変わらず入手するのが困難だが、それももう少しの辛抱だろう。
灯油は俺ん家の周辺では、量に限定はあるが、入手できる状況になっている。


しかし、宮城県全体でみるとそれは、本当に小さな出来事にしかすぎない。
復興に向っているなどという事をとても軽々しく言えるものではない。


一昨日、自分達の力で、メディアでは報道されていない地域に救援物資を届けに行った方々の話を聞く事ができたので、その内容をちょっとだけ記しておく。


彼らは、WEBサイト上で物資の提供を求め、ガソリンも知人達の協力と自力で手に入れ、自分達の足で、救援物資を届けに行ったのだ。
勿論、当然の事ながら全て無償、見返りを求めない行為である。


現在、各地の避難所の様子などが、テレビをはじめとしたメディアで流されている。
皆、その惨状を見て、酷い状況だなと思うだろう。
しかし、彼らの話では、報道されている地域はそんな中でもまだましな方で(勿論、家屋の倒壊や自動車などの散乱ぶり等本当に酷いし、その周辺に住んでいる人々の精神的ダメージはとてつもないものだろう。町の復興もいつの事になるのやら今の状況ではまったく考える事もできんだろうし、その術すら思いつかないと推測される。また行方不明者の数が膨大だ)、報道陣、自衛隊が入っていない地域は更に酷い状況だと言う。


ツイッターからここにきた方には重複した話にはなるが、彼らの中の1人がこうつぶやいたのが印象に残った。


「地獄にも"天国"と"地獄"がある。その"地獄"は行政からもメディアからも無視されている」


街の荒れ様はやはり凄まじいが、テレビで報道されている様な避難所は少なくても食料や水、暖はとれる(それも十分なものではない可能性は高いし、それを皆に行き渡る様に動ける人手が足りないという)。


しかし、もっと悲惨なのは、避難所にも行けず、マンションや一軒家に残った(取り残された)人々だという。
現在のところ、自衛隊等の救援物資はそういうところに迄は、行き渡っていないという。
そういう地域の人々は、インフラはどれも復旧していない状態で、尚かつ、わずかな食料や飲料水で食いつないでいる状況との事だ。
物資を届けた時も、持っていった物資が足りるだろうか?と思う程、マンションから、たくさんの人々が出てきたという。


そして、そういった地域で老人ホーム等に入居しているお年寄り達は老人ホームから退去する様に求められているようだ(ホーム側もインフラや救援物資等の不足で運営が困難だという事だろう)。
しかし、同じくインフラが復旧していない実家に帰ったところでどうなるというのか?


こういうところにも、避難所と同じ様にカメラが入っていって、惨状を訴えるべきではないのかと思うのだが。


また、町の惨状に関してはテレビで放送されている部分もあるが、そんなものはまだましな方だという。
死体が入ったままの車が水の中に何十台も沈む、もしくは沈みかけていたり、その岸辺には、家や建築物が流れ着いている為、これをどうやって岸に上げるのか?これを果たして岸に上げる事事態可能なのか?という状況であるという。


そして、恐ろしいのは、その状況を、我々宮城県民ですら知らないという事だ。


しかし、メディアは相変わらずである。
ガソリン満タンの車で被災地迄行き、弁当を食って、夕方には中心部のテレビ局に帰ってくるという状態だろう(俺の個人的な推測ね)。


そして、特に酷い局になると被災地、被災者の於かれた状況をお涙頂戴話にしたり、美談みたいのばかり流している。


↓その中でも最悪な例のひとつがこれ。
フジテレビ(クソ)



俺は、直接見ていないからなんとも言えん。
ただ、俺の友人が偶然にも見ていたそうだが、とにかく酷かったと、怒っていた。


俺もほとんどテレビを見ていないので、今現在、少しでも改善されている可能性もあるが。
いや、無いかもな.....。
※テレビを見ないというのは、電気が復旧して、ケーブルテレビ(うちは地上波もケーブルテレビで見ている)が復旧した時にはじめてまともにテレビを見たのだが、その時見た報道の仕方にひじょうに疑問といらだちを感じたからだ。


某芸能人が発言した様に被災者が欲しいのは、安否情報や、避難所、給水所等の情報な訳だ。
しかし、その時、テレビで流れていたのは、津波で流される家や、爆心地の様に何も無くなった町を前に途方にくれる人々の映像だった。
それを延々と垂れ流す。
そりゃあ、そっちの方が視聴率とれるだろうよ。
でも、その時はどの局もスポンサーが無かった筈だから視聴率なんてどうでもよかった筈だ。
「こういう事態に於いてもこの姿勢かよ」と思ったのが正直なところだ。



また、東京のテレビ局主導で番組を放送していた事にもひじょうに疑問が残った。
東京のテレビ局ではなくて、地元のテレビ局が主導権をもって放送するべきではなかったのか?
何故、そうしなかったのか?
そのほうが、県民にとって有益な情報が数多く得られたのではないか?
地元テレビ局も機材などに打撃を受け、放送をできる状況ではなかったというのであればわかるが(まあ、それはまず無いな)。
そして、福島の原発がヤバい事態になると一挙にそちらのニュースに各局共シフトした。
電力供給源の不足という懸念、また放射能の問題が出れば自分達に危険が及ぶ可能性が出てくるからねえ。
まあ、勝手なもんだよな。
因みに宮城県は福島県の隣です。
はい。


現在おそらく全国的にはテレビのプログラムも通常の番組に戻っているだろう。
宮城県の局は通常の番組を放送していつつ、震災関係の特別番組も放送している様だ。
それでも、放送中は何ていうの?
画面の端っこが、逆L字型になってるやつ。
それで、給水所情報や、医療機関、交通機関の運行状況などのテロップを流している。
しかし、
「自分の欲しい情報がいつ出るのか?」
「欲しい情報自体が出るのか?」
などと考えながらテレビをずっと見ているのもなかなか大変な作業だろう。


ネット環境があればそっちで調べた方が全然早いだろう。
しかし、パソコンを持っていない家庭や、お年寄りにとってはやはり、テレビとラジオ、新聞だけが情報源な訳で、その中でもリアルタイムなものと言えばテレビとラジオという事になる。
だから、テレビは正確な情報を流さなくてはいけないし、お涙頂戴ドキュメントよりも、有益な情報をできるだけたくさん流さなくては意味が無いと思っている。


で、少し話はそれるが。


友人TOSHI氏が昔勤めていた東京の商社の社長に直訴して、飲料水や食料を(飲料水はかなりの数)調達してきてくれたのだが、一昨日、それを配ろうと各施設をまわっていた。
ところが、どこの施設も受け取ろうとしないのである。
市など行政が絡んでいるところでは、何かルールの様なものがある様で、どこに行っても受けとってくれないのだ(行政のあり方にはひじょうに疑問を感じたので今後その事に関しても書くかもしれない)。
俺たちも勉強不足なところもあったかもしれない。
いや、あっただろう。


宮城県のWEBサイトにも、仙台市のWEBサイトにも救援物資の受け入れに関する記述がある事は確かだ。
しかし、せっかく入手した大量の飲料水などがこのままでは無駄になる。
そこで、思い出したのが、冒頭で書いた方々の事だ。
しかし、前日に彼らのWEBサイトを見た時には
「一旦支援物資の募集は締め切らせていただきます」
とあったので、どうしたものかと考えていた時に、偶然にも友人Yからその事に関するメールがきた。
その為、夕方Yに会い、状況を説明した。
そこで、Y経由で彼らの代表者の方と話をし、物資を受け取ってくれ、現地に運んでくれるという手配がとれ、車に積んでいた物資を持っていく事ができた。


ひじょうにありがたい事である。
そして、今、生きる事すら厳しい状況下にある人々にできるだけ多くの物資が行き渡る様に祈るしかない。


メディアの話だったな。


県外に住む人も、この日記を読んだら、少しは理解してほしい。
例えば東京等で、今回の震災に関するニュースが今現在どの程度報道されているかわからない。
しかし、メディアで報道されている部分はあくまでも、ほんの一部の情報であるという事を。
実際には、もっと酷いぞという事を。


宮城県は今、本当に大変なんだ(勿論、岩手県も。福島県は震災の被害は比較的少なかったが、今、説明するまでもなく別の形で酷い状況に陥っている)。
テレビが報道している悲惨きわまりない状況は勿論の事だが、報道されていない地域にも地獄の様な状況がたくさんある。
地震から2週間以上が経った。
比較的被害の少なかった俺の家でも水道が復旧したのは一昨日の午後だが、全然恵まれている方だ。
しかし、避難民が出ている地域や、報道すらされていない地域はそれどころの話ではない。
まさに陸の孤島の様な地域がたくさんある。


言っとくが、別にここで煽っている訳ではない。


今必要なものはたくさんある。
大企業はいろいろ貢献できる事はあると思うし、利益を上げているならその義務もあると思う。
実際に震災翌日から営業していた大手デパートもある。
毎日決まった時間に無料で炊き出しをしている寿司やのチェーン店も見た。
そして、大企業に限らず、炊き出しや飲料水をわける、携帯の充電や暖をとる為に場所を開放するなどと行った行為を積極的に行った企業や、店もあった。


個人で、何か貢献したいという方がいたら、それは、義援金の募金でも構わない。
それだけでも十分な貢献だと思う。
10円だって100円だっていいんだ。
義援金に関しては、様々な企業、団体が募金を呼びかけている。
日本赤十字社が信用できないなら、自分が信用が於けると思う団体に募金すればいい。
ただ、詐欺にだけは注意してくれ。
実際、日本赤十字社のサイトでも、赤十字社の名をかたった詐欺が出回っている為、注意を呼びかけている。


昨日は久々に、鬱状態に近い状態にあったので、夕方くらいから睡眠薬を多めに飲んで寝ていた。
今、明るくなってきて外を見ると雪がどっさり積もっている。
昨日の夕方以降に雪が大量に降ったという事だろう。
暖をとれない場所にいる人々はとても辛い状況だろう。
何ともやりきれん。










-警察庁による3月25日午後11時付けの発表-
・12都道県警が検視などで確認した死者数:1万102人(その内、宮城県が6097 人)。
家族らから届け出があった行方不明者(あくまでも家族から警視庁に届け出があった不明者という事なので、当然の事ながら、実際にはそれ以上の行方不明者が存在するという事になる):1万7053人。
・死者と行方不明者の合計:2万7155人。
・25日午前10時現在で検視が終了した遺体:約9890人(このうち身元が確認されたのは約6890人)。
※もう一度書くが、これは警察庁による3月25日(金曜日)午後11時付けの発表です。


また、仙台市サイト内の3月24日13時更新の記事にて
「仙台市内には1万人以上の避難者等がおり、毎日3万食以上の食糧が必要なため、被災者の食糧が非常にふそくしております」
とある。
その一方で
「個人からの物資の提供につきましては、混乱を避けるため、お断りさせていただいております」
ともある。
なかなか難しいところだ。
ただ、「自治体や社会福祉協議会等でも物資支援を行っている場合もございますので.....」という記載もある。↓
仙台市WEBサイト:企業・団体からの支援物資の受け入れについて